魔術師をめざして

魔術師を目指して、相場・数学・プログラム言語を研究しています。

どこでもドア

きょうは「ドラエモンのどこでもドア」の話だ。何かの本で読んで印象的だったので紹介したいと思う。記憶だけがたよりなので内容が変わっているかも知れない。

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どこでもドアに入った者はまず分子レベルまで分解されるのだ。つまり完全に抹殺される。どこかに転送などされないのだ。そしてこれは特筆すべきことだが、分解される前に体中の肉と骨をずたずたに切り刻むのだ。もっとも残酷だと思える殺人が行われる。そののちに分子レベルまで分解されるのだ。
ただし残酷に殺され分解されるときにどこでもドアに入った者の記憶を含めたすべての情報がコピーされる。そのデジタルデータはインターネットを通じてコンピュータ(サーバ)で共有されるのだ。ドアの出口では分子合成がなされ体が記憶と共に再生されるのだ。
どこでもドアに入った者は消滅する。出口で新たに生成されるのだ。これは別の者だろうか?人間だとすれば同じ人間といえるだろうか?
記憶は完全に再生されるわけだから本人もまわりの家族も友人も区別が付かないだろう。しかし同じ人間といえるだろうか?しかしなぜ分解する前に残酷に殺さなければならないのだろう?
実は、自己とは何か魂は存在するかというようなテーマのための思考実験だったのだ。わたしの解釈だが残酷に殺されるのは入り口で自分という命が無くなり死ぬのだということを本人が認識し、そのことをどこでもドア自身でも確認するためのプロセスなのだ。
しかし、いくら残酷に殺されてもその記憶は一切残らないので、のび太は何度残酷に殺されてもまたよろこんでどこでもドアに入っていく。入るときと出ていくときの記憶は繋がっているのでその間に起きたおぞましい出来事は記憶に残っていないのだ。
ある日、のび太がドラエモンも一緒に行こうよぉ!とドラエモンの手を引いてどこでもドアに入ろうとした。そのときのドラエモンの嫌がりようっていったらありゃしない。最後にはギャーと悲鳴をあげてどこでもドアに入っていったのだ。出口には笑顔ののび太と浮かない顔のドラエモンの姿があった。

(今回の記事は、ぼくが過去、ツイッターに書いたことをそのままコピーした。そして画像はネットでひろったものを貼り合わせたということをお断りしておく)