年金ロボットをめざして

FX(外国為替証拠金取引)自動運用ロボットの開発ブログのはずだった

血液型(2)

血液は電子顕微鏡で見ると ABO によって異なる形状をしている。それが体中を巡っているわけで、その回路特性があったとしても不思議ではないだろう。

ただし、ABO による行動特性は、医学的にではなく、まずは統計的に証明されることだろう。実際に特定の集団においてその有意差が証明されているはずだ。サンプル数をもっと十分にすべきだろうとは思われる。

ところで、ぼくは無神論者だが、神(人格神)が存在しないという完全な証明はなくとも、それが存在しないことについては確信を持っている。同じようにいまのところ ABO の有意差の完全な証明がないとしても、ぼくは有意差を確信している。書いたついでに話は脱線するが、神経生物学者のサム・ハリスの言葉を紹介する。

『合理的に正当化できるような根拠がないあれやこれやの信念をもつ人々を指す名称はいくつもある。そうした人々の信念が極端にありふれたものであるとき、私たちはそれを「宗教的」と呼ぶ。そうでないときには、おそらく「狂気」、「精神病的」、あるいは「妄想的」...と呼ばれる。明らかに、大勢いれば正気とみなされるのだ。だが、私たちの社会において、宇宙の創造主があなたの考えに耳を傾けることができると信じるのは正常であるとみなされるが、「雨音が寝室の窓を叩く音は、神がモールス信号で交信してきているのだ」と信じるのが精神の病の現れとされるのは、単なる歴史のめぐりあわせにすぎない。だから、宗教的な人間一般が狂っているとは言わないが、彼らの核心にある信念はまちがいなく狂っている。』

ぼくの ABO への信仰はどうなのだろう。:P

ABO が有意であることの証明は、その気になれば簡単なことだ。もちろん労力が不要という意味ではない。十分なサンプル数で実験をおこなえば科学的(統計的)な証明ができる。

また、これはぼくの内的なことだから証明とは言えないが、血液型を聞くことなく、顔を見て10分程度話す(質問する)ことで、血液型を当てる(ハズれる場合もある)割合がどの程度になるのか、これにはぼくはある程度の自信がある。

例えば 80% 正解するとしたらどうだろう。AB はかなり少ないから、例えば 1,000人で実験するとしたら、A、O、B、AB の参加比率を等しく(250人ずつに)したら、当たる確率は 1/4 といえるだろう。

もし、そのような調整をしないとしたら、AB とは言わずに、常に A か O を言うことにすればかなり当たりそうだ。では、この調整は回答者であるぼくに不利に働くだろうか。いや、ぼくはそうは思わない。AB が 250人もいてくれればかなり当てやすいだろう。

この調整した実験で 1000人に対し 80% の正解率だとしたら、もはや、血液型なんて信じないなんて言っていられないだろう。じゃ、やってみなよ! って、ぼくは吝かじゃないけどね。

話は変わる。

ある一流大手企業がセールス担当者の募集で B をターゲットにした。その結果、営業成績が向上したという記事を見た記憶がある。ABO はもっと研究すれば経済的な効果にも役だつはずだ。しかし、ABO は常ににやけ顔で扱われる。ひょっとしたら、あるかもしれないけど、そんなミーハーなねぇ、ってことだろう。

テレビに出ている文化人的なコメンテーターがムキになって ABO に反発する姿を見ることがある。なんだろう、人間の性格(あるいは人格ととっているのか)がそんなもので分類できるはずがないと思ってのことか、ABO による性格特性判断が科学に対する侮辱のように感じるのだろうか。多分、ある種の偏見を持っているのだろう。

ABO については「血液型と星占い」というようなタイトルの本がかつて結構出ていたようで、ABO を星占いと同類に捉える人たちが多いのかもしれない。

だからこそ、ABO 否定することが自分の文化人レベルを高めるとでも思っているのか。もし、ABO に真摯に向き合った結果だとするのなら、ぼくは「この不感症め!」と言ってやりたい。真理に対する不感症という意味である。

まさか自分がガリレオ裁判でガリレオを裁いている立場だとは気づいていないことだろう。

わかりました裁判長。もう ABO は信じません。約束します。

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.....それでも ABO は役にたつ。