Tao
この本を初めて読んだのはいつごろのことだったろう。
ちょっと理屈っぽすぎるかとも思えるが、ぼくは楽しく読むことができた。
そして、この本に書いてあることがあまりにぼくの考え方、感じ方と一致していたので、ぼくはタオイスト(Taoist)に違いないと思った。それから何年もの月日が流れた。
しかし、すべてが一致しているわけではない。そもそもぼくは完全なる一元論者なのである。(一元論と二元論があり、二元論は肉体と魂は別々に存在すると捉える。一元論はもうわかるはずだ)
そういえば、日本人はほとんどが二元論者だね。魂や霊の存在は皆が信じているだろう。人間は死ねば死体でしかなく、物体でしかないと言い切れる人はいるだろうか。いないね。
以前ぼくはこのブログで、日本人は「消極的無神論」ではないかと述べた。このとき、ぼくが頭に浮かべたのは若い男性だ。しかし、この捉え方が日本全体を反映しているかと言えば全然違うよね。
日本人は宗教に関しては実にいい加減なところがある。都合のいいところだけを取って信仰に対して真摯な姿勢とはとても言えない。これが悪いことかどうかと言えば、これこそが日本人の知恵と言えるのかもしれない。
さて、ぼくは少なくとも部分的にはタオイストなのだろうか。それを確かめたいと思って、本屋で、老子の本を立ち読みした。小さな本屋なので2冊しかなかったが、そのどちらも、どうも書いた人の解釈が強すぎるようだ。訳者の個性を押さえて老子の原本に忠実な内容がぼくはほしいのだ。
老子を訳すような人は少なくとも神秘主義者だろうし、実際、本の最後にある経歴を見てみたら宗教関係者だった。どおりで宗教的解釈が鼻についたわけだ。
ぼくは、無神論者であり、一元論者であり、そして神秘主義者ではない。しかし、タオイストの部分を持っている。厄介な人間なのだ。
それで、今回、老子をちゃんと読んでみようと思った次第なのである。またもやアマゾンのお世話になる。
ところで、その昔、「法華経と量子力学」(湯川秀樹 著)という本を見かけたという記憶があったので、調べてみたのだが、どうやら思いちがいのようで、代わりに「法華経と原子物理学」(松下真一 著)という本が見つかった。それでこの本を注文した。
またついでなので「タオ自然学」という本も注文し、これは既に手に入れた(まだ未読)。どちらの本も現代物理学とタオイズムあるいは仏教との強い関係性を主張したもののようだ。
ぼくは仏教を受け入れることはあり得ないと思っているが、既にタオイズムは部分的に受け入れている。
そういえば「タオは笑っている」によれば「禅は中国のタオとインドの仏教をまぜ合わせ、日本人がこしょうと塩で味つけしたようなものだ。」とのことだ。
というわけで、禅についても調べたことがあるが、一元論者であるぼくは、食べる前に臭いで投げ出してしまった。まずはタオに潜ってみることにしよう。