The God Delusion
最近読んだ本だ。
アマゾンの書評にドーキンスがムキになって神を否定していると書いている人がいたが、読んでみれば、ムキになどまったくなっていないではないか。
むしろ、かみ砕いてあらゆる人にとって疑問が残らないように反論がないように注意深く書いているように感じた。
ただし、もっと易しい言葉で書けるはずだよとは思ったが、厳密性を担保するためには仕方がないということも理解できる。
「神は妄想である」、ぼくはこの本の画像を載せて、居丈高に神などいないのだ! と言いたいわけじゃない。ぼくの気持ちを単純に述べれば「そんなことどうでもいいさ」って感じ。
ぼくについて言えば、少なくとも人格神がいないことは確信しているし、そのうえ無神論者でもある。でも、神社で手を合わせるし、墓に行けば、そこでももちろん手を合わせる。
そこに事故や自殺などで亡くなった人がいると知れば、そこでも手を合わせるだろう。
ぼくはこのような行為や気持ちは大切なものだと思っている。しかし、ぼくはあらゆる神仏を信じてはいない。しかも、ぜひともこのことを主張したいなどとも思っていない。
これは本当は言いたいことじゃないけど、じゃ、何に対して手を合わせているのか、手を合わせることで亡くなった人に何かが伝わると思っていないことは当然なのだが、もし、ぼくが手を合わせる姿を誰も見ていないとすれば、自分のために手を合わせているのは明らかであろう。
だれかが見ているとすれば、自分とその見ている人のためなのであろう。なんだ、それじゃ、ただの偽善だというのか。違うよ「ただ手を合わせたいから手を合わせているだけ」、それだけなんだけど、それだけじゃダメだろうか。
ぼくのこういうところが、タオイズムなんだろうね。タオについてはあとで知ったことで、本当は仰々しく「ぼくはタオイスト」なんて言う必要はないと思うけど、自分で自分について気づいたことなのでここで書いたように書いてみようと思うのだろう。
さて、日本人の多くの人たちが手を合わせる。このときはきっと亡くなった人の霊というものなどを意識していることだろう。同時に神仏を意識しているかも知れない。ぼくはそこに「偽り」を感じないではいられないが、その人たちに嫌悪感などを感じることはない。むしろ日本人の美徳と言えるのではないかと感じるくらいだ。
それでころか、このような詮索自体どうでもいいよって普段は思う。っていうか、何も思う必要はないと思っているのだろう。:P
ところで、ぼくはベイコン(画家のね)のことばにちょっとショックだった。前に「利己的な遺伝子」の記事で参照したが、ここでもう一度参照しよう。
『快楽主義的に成り行きまかせで生きている人間より、信仰をもち神に対して畏敬の念を抱いている人のほうが、たいていはずっと興味深いと思います。一方 で、信仰をもって生きている人は、私に言わせれば完全に偽りの人生を送っているわけで、敬服すると同時に軽蔑せずにはいられません。でも、結局のところ、 ある人物が興味をそそる人物になるのは、その人が何かに専心している場合だけで、宗教があれば、その人は少なくとも宗教に専心できるのですから、それはそ れで意味のあることです。しかし、私が思うには、信仰は全然もっていなくても、まったく無意味なことに打ち込んでいる人がいれば、その人のほうが好奇心を そそるでしょう。』「肉への慈悲」(筑摩書房)より。
これは、ぼくにとっても、まったくの事実、真実と思えるが「敬服すると同時に軽蔑」という部分に考え込んだのだ。ぼくは「軽蔑」しているのか? 「偽り」は感じるよ。だだし本人が偽っているというわけじゃないよね。本人は思い込んでいるわけだから。それでも言える「偽り」ということだ。
実はこの「軽蔑」ということばがちょっとショックだったのだ。ぼくは軽蔑しているつもりはまったくなかった。例えば、石を空に投げれば雨が降ると信じ込んでいる人が、空に向かって延々と石を投げている姿だ。ぼくはそれを見てもその人を軽蔑しないだろう。
そうだね、これを書いて、今わかった。ぼくは軽蔑などしていない。
しかし、信仰の深い人たちの人を助ける行為などが、もし、神さまが見ていて褒めてくれる、その結果、天国に行けていい思いができるというものだったら、そう考えてしまうと、ちょっとガッカリだね。でも、この詮索自体がちょっとゲスだね。
また、ある宗教では、自爆によって多くの人を殺せば天国に行けると信じ大量虐殺をおこない死んでいく人がいる。あの世があれば、間違いなく地獄に行く人だ。でも心配は要らない。地獄なんてないから。ところで、もし天国があれば、そこは恐ろしいところだと思うよ。だって、終わることのできない世界なんだよ。それは間違いなく地獄だね。
「天国があればそこは間違いなく地獄だ」まじん語録としよう。:P
最後にぼくのことだけど。
ぼくの母親は心臓が悪くてある時期からは死と隣り合わせだった。そういうことが理由なのだろう、ある宗教を信じた。当然、母はぼくにもその宗教を信じさせようとした。小学生の頃だったと思う。ぼくは反発したよ。子供の特徴である「正義感と残酷心」をぼくも持っていた。
そして母は40代で亡くなった。
今だったら、ぼくは間違いなく「偽り」を選ぶだろう。
残念ながらぼくは子供だった。ごめんなさい。