魔術師をめざして

魔術師を目指して、相場・数学・プログラム言語を研究しています。

ぼくがもし殺し屋だったら

太陽と月に背いて」を観ることができないままだ。アマゾンで調べたら 35,500円。どういうことだ。そこまで無理をして観ようとは思わない。というわけで、この話はここで途絶える。だけど、一つだけいいたい。ディカプリオはダイコンだ。:P

さて、ぼくは正義感の強い男だ。だからといってぼくはそれを信じちゃいない。その正義感はどこから来るのか。よい人間と思われたいからか。あるいは、猿のオナニーのように特別の意味などないのか。そうだね、意味はないだろう。納豆が好きな理由など詮索するのが無意味なように、ぼくの正義感もその納豆のようなものだ。

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ぼくは悪い人間にはなり得ないだろうか。それはわからない。ただ、ぼくは小悪党にはならないだろう。自分の小さな欲のために人を傷つける。それはなさそうだ。

しかし、ぼくのようなタイプは、殺し屋になることはあり得るかもしれないと思う。こりゃ、小悪党じゃない、大悪党だ。ぼくが殺し屋だったらどんな殺し屋なのだろうという妄想をした。

殺すときは一瞬も躊躇わず瞬時に引き金を引くことだろう。まぁ、そんな、残酷な!となにも考えずに叫んでいる、善良ぶったおばさんたちを最初のターゲットにしたい。(まっ、冗談だよ)

ぼくは人間の醜さを知っている。自分の醜さをしっている。だけど、善良な人たちは大好きだ。アンジョリーナ・ジョリーのことを偽善者などといったりはしない。人のよい行いを偽善と非難することほど恥ずかしいことはない。2番目のターゲットはそいつらだ。(冗談だよ)

 多くの人たちは自分の醜さを考えたことがあるだろうか。気づいちゃいるよね。ただ、目を背けているだけだろう。太陽と月に背いている。

ぼくの正義感は、社会通念から来ているものではない。もっと根源的なものであり、ぼくの醜さと同居しているものだ。ぼくの価値は、それに気づいていてること、ただそれだけなのだ。

そういうわけだから、理由さえ見つかれば、ぼくは真の殺し屋になれるだろうと思う。人を殺そうとするたびに、なんてこった、こんなことをしていいのか、許されるのかと葛藤することはない。そんなやつがいたら、瞬時に引き金を引くぼくよりも、もっとずっと残酷な人間だろうと思う。

ぼくは大悪党だね。