キリスト教の歴史の一面
前身は、ユダヤ教だった。ユダヤ教の神は、復習の神だった。
迫害を受け続けていたユダヤ人は、やがて、現れて、
自分たちを苦しめ支配する者たちに復讐してくれると、
信じていた。しかし、いつまで経っても復習の神は現れない。
やがて、信仰の神は変っていった。復讐など詰まらない考えは止めるべきだと、
我慢と道徳心の神キリストへと変わっていった。
これはちょうど、いつか金持ちになれると信じていた人が、いつになっても貧乏のままで、
絶望して、金持ちなどくだらないものだと言い出したのと、似ている。
だから、キリスト教道徳は、負け犬道徳と呼べるかもしれない。
待てど暮らせど、復讐の目が無いので、復習は悪だ、
右のほほを打たれたら、左のほほを出せなどと言う、ものが、
道徳となっていった。
😹は、これを、偽善道徳と呼ぶ。
ところで、疾走と言う映画を観た。
教会が出てくる。牧師は😹の好きな豊川悦司だ。
少女が言う、教会で牧師様が、生きる意味を教えてくれるって。
一緒に行かない?と。
これは、牧師様がお金の使い方を教えてくれるよと言うのと同じだ。
馬鹿にするのもいい加減にしろ!と言いたい。
🐷地獄に落ちるぞ。
😹いいとも、かかってこい!
どう生きるかを決めることこそ、人間の尊厳なのだ。
尊厳を捨てて生きろと言うのか。
本人が決めるなら、尊厳を捨てたっていい。
それが、その人の尊厳だ。何人たりとも、尊厳の邪魔は出来ない。
これでわかるだろう。ハンニバルは、究極のヒューマニズムなのだ。
ハンニバルの2つの公理を思い出そう。
①人間、生きることに意味無し。
意味は自分で定める→尊厳化=サルトルは、投機と名付けた。
②人間に価値無し。
→価値とは、哲学的価値→故に、人間は、哲学的には平等。
勿論、現実の世界においては不平等だ。
ある宇宙飛行士が言った、
人間の価値は、その人の努力の総量で決まる。
生まれつき、努力のできない人は、人間の価値が無いと言うのだろうか。
現実の不平等の中で、どうやって生きればいいのかを、
探す手伝いをハンニバル出来れば嬉しい。