宇宙人はいるか
宇宙人はいるかと聞けば、ほとんどの人が、いると思うとこたえるだろう。
ぼくのこたえはこうだ、「いるけどいないの」。
詳しい話をしようじゃないか。
「いるけどいないの」というのは、そのむかし、カルピスのテレビコマーシャルで、家庭にかかってきた電話を幼い女の子がとって「ママ? いるけどいないの」とこたえた。ぼくはいまでもその光景を思いだす。家にいるにはいるのだけど、電話の近くのここにはいないという意味だね。
そう、宇宙人は「いるけどいないの」なのである。
じゃ、遠くにいることはいるんだね。
そういう意味でもない。
人間というものは、つねに自分の都合がよいように考える。人間の存在は尊い、地球は宇宙の中心にある、死後の世界や天国の存在、自分に都合のよい神仏の存在、など、いくらでもある。
宇宙人の存在については、コペルニクスへの反省としての、人間だけがこの広大な宇宙に存在するなんてありえないという想い、そしてやはりまたもや、いてほしいという都合がよい想い。
いたら地球人は皆殺しだとは思わないのだろうか(そうなるとは断定しない)。少なくとも「チ・キ・ュ・ウ・ノ・ミ・ナ・サ・ン・コ・ン・ニ・チ・ハ」なんてことはないのだ。
しかし心配は無用だ。宇宙人は我々にとって時間的空間的に存在しない。ただし、宇宙人は我々とは無関係に、存在したし、これから存在するはずだ。
うえで、空間的にといったのは、たんに距離的という意味だ。相対論的あるいはSF的な意味はない。この距離的な問題については、ほとんどのだれもが気づいていることだろう。重要なのは時間的な問題なのだ。
我々人類の存在が宇宙的時間軸のある一点であることは想像できるでだろうか。おなじく、ある宇宙人の宇宙的時間軸における存在は一点なのである。その点と点とがおそろしく偶然にも交わる確率はどのていどなのであろうか。
ぼくはこの専門的な計算を披露できないが、理論統計上、ありえないといえるのだと思う。
これがほんとうの「いるけどいないの」なのである。この「時間軸問題におけるいるけどいないの」にほとんどの人が気づかないのはなぜだろう。