魔術師をめざして

魔術師を目指して、相場・数学・プログラム言語を研究しています。

神仏は見ている

神仏は見ている。
そう思うとすれば、その人にとって、見ているというのは正しい。

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それでよいだろう。ただし、ぼくには納得できないことがある。なにがだい?

ぼくの古い友だちに Y がいた。Y はかなりの悪人だ。Y は人の心をもてあそぶのが平気だった。

あるとき、Y が自分の悪事を悪ぶれることもなく話し始めた。しばらく聞いたあと、ぼくは我慢できなくなって、もう、そんな話しは聞きたくない!と言った。その場の空気はしらけてしまったがやむをえなかった。是非もない。

ぼくは人の不幸の上に自分の幸福などありえないという考えだ (*1)。ぼくは Y にもそのことを言った。こんなふうに善人ぶるぼくだが、Y のことはそんなに嫌いじゃなかった。

ただ納得できないのは、Y は神仏を信じているようなのだ。そのうえ、自分の運勢を気にしているようだ。どうしてだよぉー。ぼくは一切の神仏を信じない。自分の運勢などに期待をしない。だけどなぁー、人に不幸を与えた上で、自分の運勢に期待するって、..いったい。

悪人なら悪人らしく、おれは地獄に堕ちるんだぁーと言いきれよ! とぼくは思って止まない。ぼくが Y だったら、自分はどうせ地獄に堕ちるのだと言って開き直ることだろう。

Y は極端だとしても、Y のようなケースの人はけっこう多いのではないかと、ぼくは、ふと、気づいた。そいうえば、あの人も、また、あの人も..Y ほどではないとしても Y 的な人はけっこういるじゃないか。それらの人たちは、なにをしても神仏は自分を許す。自分は特別なのだと思っているのだろうか。

ぼくのように神仏を信じない人間が、怖い者なんてどうせいないんだからと悪事を行うのは、よしとはしないが、理解はできるよ。

お願いだ。神仏を信じるのなら、神仏に見られている、見張られていると思ってくれよ。と、ぼくは願う。自分の運勢を期待するのなら、その期待に見合う行いをしたらどうだろう。

この Y のような身勝手な信仰心だけは納得できないんだ。そのうえ、驚くことに Y は一時期、神主だったのだ。まっ、それは置いておこう。えっとね、神社仏閣で手を合わせ願い事をする人たちは皆、善行を意識すべきではないか。いやね、そうすべきだってことじゃない。そうすべきだとは思わないのかいっていう問いかけだ。

余計なお世話だけどね。

ああ、そうか、神仏には営業時間があって、その時間帯以外なら悪事をしても気づかないから平気ってことか。つまり、悪事をしても警察に知られなきゃ平気ってやつの、その延長にある意識か。

ひょっとしたら、神仏と自分との関係は一方通行で、こっちの願いは届くが、向こうの眼はこっちまでは届いちゃいないってことか。またあるいは、こっちの悪事に神仏が気づいても神仏はそんなことを気にしないってことなのか。

どう考えてのことなのだろう。

神仏は見ているぞ! :P

 

(*1) 「人の不幸の上に自分の幸福などありえない」というのは、人を踏み滲んでおいたうえで自分が幸福になるということが、宇宙法則上成立しないとか、なにかの力が働いてそれが阻止されるとかそういうことではない。ただ、自分の好みではない、それでは自分の心の安らぎがない、というだけのことだ。だからこの考えはいつか変わるかもしれない。