叫ぶ教皇の頭部のための習作
Francis Bacon による「叫ぶ教皇の頭部のための習作」と名付けられた 1952年の作である。もっともこのタイトルは Bacon が付けたのではなくディーラーが付けただけのものかも知れない。
この教皇というのはベラスケスによる「教皇インノケンティウス10世の肖像」をイメージしているようなのだけどそれも定かなことではない。
ところで、この画像はコントラスト、明度、縦横比をぼくが少し変更したものだ。そんなことしちゃいけないだろ。そのとおり。しかしね、油絵というのはそもそも平面物ではないんだ。それを完全な平面にした上で小さな画像にしてしまえば完全な別物だ。その画像は元がどんな感じのものかを示す参考資料に過ぎない。
実はぼくはもっと大きな画像を鑑賞したので、そのイメージに近づけたというだけのこと。実物はまだ観たことがないので、実物の絵に近づけたという意味ではない。
さて、ぼくがここで、この絵の批評家による論評を受け売りで書いても仕方がないだろう。また、ぼくは「肉への慈悲」で Bacon の考えを読んだので、この絵で Bacon が何を目指したのかも想像が付く。しかし、それについても書かない。前置きはここで終わり。
まずは Bacon の日本国内においての評価を考えてみたい。どうも人気がないようだ。違うだろうか、もちろん調査したわけではない。Bacon の絵は日本人にとっては表現が直接的すぎるという気がする。日本人にとって絵画とは、心落ち着かせるものであり、表面的に美しいもの、間接的でワビサビ(侘寂)を感じるものでなければならないように思う。
しかし、Bacon ほどの芸術家を放っておくのは大きな損失でしかないのではないか。芸術好きのおばさま方がこの絵を観たらどう思うだろう。あらっ、嫌だ、気持ち悪いわ。わたしならシャガールのほうがいいわ。夢があるしこんなものよりずっと美しいでしょ。あの色使いに魅了されるでしょ、違う?
芸術の価値とは何だろう。それを追求していくと Bacon にたどり着く。
さて、この絵は確かに叫んでいるようには見える。口を開けているしね。閉じた右目を見ると悲痛な叫びのようでもある。Bacon は悲痛な叫びを表現しているのか? ぼくはこの絵を観て、叫びの中に閉じ込められた自分を見つめている男に見えた。開いた口の奥は深遠なる闇だ。その闇の奥から自分を見つめている。
そんな解釈がぼくを誘惑するのだが、Bacon はそのような説明は嫌うだろう。Bacon は偶然に頼って直感的に描く。そして、その結果を批評して軌道を修正する。それも直感的に。
ぼくが横浜で観た Bacon の絵は額にガラスがはめ込まれていた。Bacon はそれを好むらしいのだが、ぼくはガラスのない Bacon の絵を観たい。そのとき観た実物の印象は、この画像のように平面的ではないし、その絵は美しいと感じた。この絵もきっと美しいはずだ。
実物を観る日を楽しみに待つとしよう。