魔術師をめざして

魔術師を目指して、相場・数学・プログラム言語を研究しています。

ハンニバル 重要な主張

ぼくの書いた記事を読み直してみた。思いつくまま乱雑に書いていた。そこで、今回、重要な部分をまとめてみることにしたのだ。
ハンニバルでは、「人間、生きることに意味なし」と「人に価値無し」の2つの原理を前提にしていた。これは、一見、人間を冒瀆したような思想に感じたはずだ。しかし、実は、ハンニバルは、人間を最大限に尊重した思想なのだと言ったら驚くだろう。確かに最初はゼロ(無価値)だ。ゼロだからこそ、自由に目的を持つことができる。いったん目的を持ったら、その目的は、その人の尊厳として、機能する。尊厳が生まれるんだ。生み出された尊厳は尊重しなければならないし、尊重しなければならない。でなければM自分の尊厳も人に尊重させることができない。この「尊厳」こそ、ハンニバルの重要な概念なのだ。
ハンニバルは、「人に価値無し」などと言うが、実は「人間の尊厳」に拘る思想なのだ。
さて、今度こそ、ハンニバルは、当分お休みだ。
 

ハンニバルと金融魔術

ハンニバルについては、散文的ではあるがいままでに少し説明したので、哲学的な課題のすべての答えることのできる、便利なツールと言えると思う。
ぼくが目指している魔術(金融マーケットの)も哲学におけるハンニバルのようなものなのだ。以下、まとめる。
                          哲学      ←   ハンニバル
        金融      ←   魔術
        数学      ←   基礎論(⊃論理学⋃集合論
        プログラミング ←   ハスケル
このように、ぼくは、カテゴリーにおける基本的万能ツールを持っている。でも、金融魔術については、現在研究中だ。いづれ自分のものにしたい。
なお、ハンニバルについては、飽きたので、当分は書かない予定。

ハンニバルにおける殺人

について。「人に価値無し」というハンニバルだから、人殺しもよしと言うのだろうって。
残念だね。ぼくが、人を殺すときめたら,法律なんか糞食らえで、躊躇いなく実行するだろう。でも、人の命を取るなら、覚悟が必要。人の命は、もともとは無価値でも、誰もが生き方や意味を自分で決める。決めた以上は、そこに尊厳が生まれる。人の尊厳を奪えば、自分の尊厳にが奪われても文句は言えないだろう。糞食らえの法律であっても、法律で罰せられる結果は仕方がない。ぼくは、法率が禁ずるから人を殺さないわけじゃない。殺したくないから殺さないだけ。君は、もし、法率が許したら、殺すのかい。それじゃ、情けないね。以前紹介した、書籍「タオは笑っている」では、法律オリエンテッドな人間や、道徳家をとても嫌っている。ぼくも同じで、してみると、ハンニバルと、老子の思想には、共通点があるのかも。以前、ぼくの家族をなぶりものにして殺した犯人がいたとしたら、復讐したいと言った。犯人が決めた殺人の尊厳は認めないと言うこと。でも、法律の定める罰は受けようということだった。たとえ殺人であっても、自分で決めればよいと言うこと。でも、殺害後の覚悟はしろよってことだね。人の持つ(ゼロから自分で作り出した)、尊厳を傷つけるってことだしね。

ハンニバル、人間の尊厳

きょうは、人間の尊厳について。ハンニバルじゃ、「人に価値無し」じゃなかったかって、うん、その通り、でも、尊厳無いいとは言ってないよ。人に意味も価値も目的もなく、それら重要なことは、すべて、その人にゆだねられ、その人が自由に決められるんだ。それこそが、尊厳なのだ。だから、他人がそれを犯すことがあれば、許せない。、ただし、本人が許すなら、それもよし。元々、人の生きる意味など無いからこそ、本人が自由に決められる。だからこそ、本人が決めた目的こそ、意味を持ちし、大切なんだ。これこそが尊厳だと言える。子の尊厳を得るために、最初がゼロ(意味なし・価値無し)じゃなきゃならなかった。つまり、本人が尊厳を確保するために、もともとをゼロにする必要があった。ぼくは実際、それぞれの人が決めたこと、すなわち尊厳を大切に考える。実践しているよ。例えば、ぼくは、自分の子供に、偉そうなことは言わない。人生について、指図はしない、というか、できないと考えている。子ども本人が決めることのできる子供の人生だ。だから、子供が会社を辞めてホームレスになるになると決めたら、ぼくにはどうしようもない。ただ、「よく考えた上のことかい」、とは聴くだろう。「よく考えたよ」と言われれば、僕にできることはない。それでも、子供に断られない限り、ホームレス生活の手助けはするよ。トコロデ、サムライは、命よりも名誉を重んじる。ハンニバルは、命よりも尊厳えお重んじる。実際、ぼくは、ぼくの人生への人からの口出しをとても嫌うんだ。すべて、ぼくが決めることだから。

ハンニバル

映画のことじゃない。今後、このブログでハンニバルと言った場合、ハンニバリズム、すなわち、無意主義のこととする。映画のことは、「映画・ハンバル」という。なぜなら、今後、ハンニバリズムは、重用したいと思っているが、何々リズムという響きは個人的に好きではなく、ハンニバルと、縮約することにした次第。早速、ハンニバルは、単純で分かり易いうえ、大変役に立つ。例えば、「職業に貴賎なし」。このことは、中学生のころから確信していたが、他人には、どう、説明するのか。
ハンニバルでは、人が生きる意味は,元々は無いため、自分で決めてよいと教える。職業も自分で決めてよく、人の価値がないのだから、その無価値が行う職業に価値があるはずもなく、ゼロ=ゼロで、差はないと言える。ただし、哲学的に差は無いと言うだけで、経済的な差異は計算可能だ。ただし、それは、人もその職業も差別するものではない。ところで、ぼくは「偽善」というものが大嫌いだ。ハンニバルっは、偽善に頼らなくても、人の平等を説明できる、汚れなき哲学だとは言えまいか。しかし、ハンニバルの、純粋性は、物事を突き詰める覚悟がなければとうたつしずらいとは言える。確かに、「人間生きることに意味なし」と、言い切るには覚悟が必要。神をも恐れる思想だ。当然だ、ハンニバルは、完全に髪を否定する。しかし、信仰は否定しない。これは詭弁じゃないよ。こんなの、ハンニバルの精神を理解すれば、当然のこと。考えてみれば、すぐにわかる。「人に価値無し」を公理とするんだから、人種に価値の差がないのもしかりで、職業ごときに差があるわけはない。人で無しに思える公理(原理)から、導き出されるのは、以外にも、人の平等と自由を保障する思想なのだ。
ハンニバルは、理論物理学における、数学のように、この上なく役に立つものなのだ。
最後に、ハンニバルの公理を書いておこう
①「人間、生きることに意味なし」
②「人に価値無し」
「自との命は尊い」だから「堕胎は許されない」などと、偽善を言わなくても、これと同等の主張が、ハンニバルから導き出せるのだ。この詳しい説明は、いつか別の機会に。
じゃ、またね。

ジョンウィック

は、先日、「アクション映画」の記事で取り上げた。じゃ、なんでまた。
きょう、また観たんだ。いいねぇ、キアヌリーブス。半端じゃない。
観ていて、ぼくも戦いたくなっちゃう。グロック一丁とと十分な弾丸があれば、1個小隊くらいは、相手にできる。1個中隊となれば、MP5が必要で、地形が有利じゃないと、戦う自信もないけどね。でも、やってみたい。銃弾を受けるのも、死ぬのも、怖くはない。やくざ映画を観終わったなかりのおっさんみたいな心境か。
なお、「ジョンウィック」には「2」もある。ネットで予告編は観られるよ。
強大な敵に向かうときは、ジョンウィックを思いだそう。何だか、やれそうな気分にはなる。

神は妄想である

ぼくも同意見だが、これは、ドーキンスの書いた書籍のタイトルだ。
日本じゃ、なんてことない主張だろうが、キリスト信徒の多い欧米では、思い切った主張なんだ。分厚い本の丸一冊が、神が、人間の妄想に過ぎないと言う内容だ。ある程度知性の高い人間ならば、人間に似た姿の人格神など、信じていないだろう。だけど、もう少し抽象的な、老子の言う「タオ」なんかはどうだろう。何か大きな力。合理的な中国人が、受け入れた思想でもある。その大きな力は、個々の人間など気にしない。「ああ、神よ、助たまえ」なんて声は、その大きな力に届くはずもない。ぼくは、タオのような思想は、理解したいが、キリスト教の言う、神様など、1mmも信じない。さらに言えば、ぼくは思う、あらゆる神物は存在しないと。「ベーコンも言ているが、信仰を悪いこととは思わない。河原で熱心に石投げをしている者と同程度には、理解できる。ただ、自分を偽ってはいるけどね。ってさ。ぼくもベーコンに同感だ。ぼくが、宗教の嫌いなところは、他の者の信じる神を認めず、自分の神こそ、絶対無二だと言う愚かさ。か自分の信仰以外の宗教を憎むという宗教の特徴が嫌いだね。宗教は戦争の歴史でもある、宗教の本質的な欠点だ。それぞれの宗教が、他の宗教を認めるなら、宗教そのものは悪くないと思う。しかし、他を認めないのが宗教というものだ。ぼくの家に宗教の勧誘が来ることがある。そんなときぼくは「イスラム教信者だと名乗る」ちょっと意地悪かな。本当は無神論者だけどね。日本人の多くは「なんとなく無神論」という人が多いだろうが、ぼくは筋金入りの無神論というやつさ。
自爆テロで人を殺せば、自分は天国に行けるから、死ぬのは怖くないと、よく、そんな醜い考えができるものだと思う。これが宗教というやつさ。そんなぼくだが、墓参りなどは好きだよ。死んだ人の霊が、墓参りによって喜ぶなんて、バカなことは信じようがない。だけど、死んだ人を思い出して皆でしのぶと言うなら、いいと思う。
 
 
 

お詫び

このところ、雑感を思いつくままに書いている。ほとんど、皆さんの役にはたたないだろう。また、記事の分類もしていない。自分の書きたいと思った雑感だけで、真剣な、読者の皆さんには、申し訳ない。

無意主義=ハンニバリズム

今度はなんだって。ハンニバルレクターから採った。一見の正義から深く踏み込んだ正義・哲学のこと。語源からは、カニバリズムのことかと思うかもしれないが、ぼくはカニバリズムどころか、カキも食べられない。無意主義のこと。これからは、ハンニバリズムとも呼ぼう。背徳の哲学だからね。その意味じゃ適当と言える。リチャードドーキンス博士は著作「利己的遺伝子」のなかで言った。「人間は、遺伝子うぃはこぶ乗り物に過ぎない。」とすれば、人間の生きる意味は、遺伝ぢを運ぶことと言える。じゃ、遺伝子はなぜ運ばれたいのか。言い換えると、なぜ、先へ進みたいのか。ことは前に述べたが、遺伝子が手を開いてまわり(宇宙)を探り、掴んでみたら、最もシンプルな目的が手の中にあったということだろう。その目的を手助けしているのが人間だということ。つまり、人間が生きること自体には、意味がないと言える。mさた、乗り物にどれほどの価値があると言うのか。あえて言うほどの価値はないだろう。つまり、「価値なし」と言っていい。つまり、ここで白状すると、「無意主義=ハンニバリズム」は、リチャード・ドーキンスに大きな影響を受けているんだ。

超法規的正義感

なんのこと? ぼくの持っている正義感のこと。メンタリストの話を思い出してくれ。それに、無意主義の2つの公理。①「人間、生きることに意味なし」②「人に価値なし」。どうだ、恐ろしい彼野郎だろう。でも、ぼくは信念の強い人間だ。命よりも名誉を重んじる。ところで、アメリカ映画で、よく、「地獄に落ちろ」というセリフが現れる。例えば、指を一本切られて、「娘の居所を言わないと、次は中指を切るぞ」と言われたときなどに言う、「地獄に落ちろ」と。つまり、答えないという強い意志の表明だ。この場面が好きだ。ぼくは、法律なんて糞食らえと思っているが、法律よりも厳しい規範を持っている。それがどうした。ただ、言ってみたかっただけ。年を取ってのぼくはは青いんだ。子供だとも言える。「神をも恐れぬ者」という言い方があるが、まさにぼくはそれだ。だって、神などいないもの。いないものは恐れようがない。「太陽と月とタオと神に背いて」というのが、ぼくだ。君の正義感は?えっ、そんなの20歳で卒業したって。生きるために、家族を養うために、そんなことは言ってられるかって。ところで、中国人は、地獄がないことを知っているから、思い残すことなく何でも、どんな悪事でも平気でできるんだと聞いたことがある。また、韓国のセウォル号事件ウィ知っているか。船長が、自分が逃げるために多くの高校生を船内に残し、自分は一番に裸で逃げ出したというやつ。ぼくは臆病者だけど、そんなことは死んでもできないし、やりたくない。船長をやる以上は、最初から覚悟がいるよね。日本映画「聖職の石踏み」で、校長の妻役の岩下志麻が、冬山で生徒が死んだことを伝えられ、「覚悟はしています。生徒が一人でも死ねば、決して主人は戻りません。」と言った。生徒を死なせたうえで、自分が、のうのうと生きて帰れないという意味だ。明治生まれの日本人の気概だ。校長役は「鶴田浩二」。

ぼくのヒーロー

どんな人にもヒーローという者がいるはず。
ぼくのヒーローは、数学界では、19世紀のフランスの数学者、エバリスト・ガロア
十代、実質高校在学中に、世界を変える、ガロア理論の論文を書き上げた。そして、ある女性のために決闘をして、死んでしまった。そして、数学基礎論のクルト・ゲーデル不完全性定理を発見し、照明した。簡単に言うと、ある数学のシステムには、成立はするが決して証明はできない定理が存在するというもので、人間の知性の限界を示したとも言われている。現代のヒーローも数学者だ。イリノイ大学竹内外史,ロジックが専門。
もう一人、黒川重信、リーマン予想が専門、だと思う。東工大の教授。いまからでも東工大に入って教わりたい、がm実際は牧らめてる。黒川さんは、僕よりもハッキリ知能が高いと認めている。君のヒーローを教えてくれないかい。
オイラーガウスは、違うのかって。言わなかったがもちろん、ヒーローに違いない。
アインシュタインは、相対論は間違っているのではないかと思っている。現代物理学者の多くが、こんなに美しい理論が間違っているはずはないという、ぼく的に好感を持てる理由により信じていると思えるんだ。ヴぉ区は高校時代、特殊相対理論を数学的に理解したいと思い。金華山にある大きな図書館に毎日のように通った時期もある。貧乏で高価な本を買うお金がなかった。思えば、金華山に通った日々が僕の青春だった。でも、現在、アインシュタインは僕のヒーローだとは言えない。

知性の対話

が、ぼくは好きだ。でも、このブログの読者に、ぼくと同等の知性の持ち主はいないだろう。またー、そういうことを言う。
もっと酷いのは、毎日ランチを食べに行く田舎レストランには、5~6人の奥様(というよりオばあちゃん達)方がいて、大声(知能の低い人の特徴)で、どうでもいい話をしている。コレを聞いていると、仮に、この人たちが、仮に、いくら美人だとしても、知性が違いすぎると、一緒に暮らすのは無理だなあって思う。向こうもお断りだって。ちなみに、このレストランのことは、「ジジババ・レストラン」と呼んでいるけど、別名で「低能レストラン」とも呼んでいるのは内緒だよ。ぼくも毎日行っているけどね。そういうことを考えるとき、いつだって映画「太陽と月に背いて」が頭に浮かぶんだ。自分の知性が低いと認めない人は、観てくれ。役に立つよ。きっと。

ハンニバル

このシリーズは好きで、全作観ているし、DVDもそろっているよ。
「羊たちに沈黙」が、シリーズのスタートで、若い、クラリススターリン(ジョディーフォスター)が,レクター博士に出合う。「ハンニバル」では、クラリスは、特別捜査官に出世していた。「レッドドラゴン」では、エドワードノートンアメリカンヒストリーエックスの)がよかった。
とにかくコンポシリーズは面白い。「ハンニバル」という名のテレビドラマシリーズもあるが、このドラマを楽しむには、ある程度高い知性が必要だ。挑戦してみたらどうだろう。
これで若江うようにぼくは、映画が趣味の一つだ。「イングマールベルイマン」から「寅さん」まで、何でも観るよ。重大の頃に観た「暗黒街の弾痕」には感動したものだ。南畝、超純粋な青年だったからね。それに超モテなかった。それが、汚れてから、モテだしたのが不思議。純粋な男はモテない。でも、「太陽と月に背いて」なんかも嫌なんだね。女ってやつは、まったく。

アクション映画

SALTを、いま,観終わった。いかした映画だ。アンジョリーナ・ジョリー。何十人もの大男相手に大活躍のアクションだ。身長170cm。ぼくよりちょっと小さい。ボーンアイデンンティティの女版といったところ。しびれたね。
内容のせちめい説明はしない。アマゾン会員無料だ。観てくれ。
ついでに、超いけてるアクション映画を2つ。
①ジョンウィック キアヌリーブスがやってくれた。すごい映画だ。2も観たよ。
2アジョシ 韓国のイケメン俳優、ウォンビンが、究極のアクションを魅せてくれた。
説明するのは野暮。
あと、人的な好みでは、ボーン・レガシーが好きだ。何度も観ている。
これは君のために言うが、「太陽と月に背いて」詩人ランボーの物語。ランボーをデカプリオが演じている。是非観てくれ。ぼくは,これから観る。二度目だ。一度目は、20年前だったか。女性には、特に若い女性には、酷な映画かもね。嫌悪を感じるかも。
DVDが手に入った。デカプリオの最高傑作。でカプリをが美しかったころの映画。アクション映画じゃないよ。